2009年01月14日09:06柳緑花紅真面目〜”ありのまま”のお互いを尊重する
明歴歴露堂堂(めいれきれきろどうどう)
〜心の目をいっぱいに開いて見る
「歴歴」は明らかな様子。「露」は「あらわす」「あらわれる」の意味。妄想を離れた心には世界が一点の曇りもなく明らかに見えてくることをいう。
晴れた空は青く、野辺には季節ごとに花が咲き、海は繰り返し波を寄せ、山々は何事にも動じずそこにある。自然とは不変の真理そのもの。そして天地のすべてのものは、何も隠すことなく、あきらかに堂々と私たちの前に姿をあらわしている。世界を目、鼻、口、触覚の五官すべてで感じるということ。ときには五官を総動員して「露堂堂」の世界からエネルギーをもらうことが大切である。
柳緑花紅真面目(やなぎはみどりはなくれないしんめんもく)
〜ありのまま、それが真実である
宋代を代表する詩人・蘇東坂の詩の一節。美しい春の景色を前に「柳は緑、花は紅、これが本来のありのままの姿だ」と詠嘆したものである。
柳が新緑の枝を垂らし、花は紅に咲き誇っている。何千年と繰り返されてきた春の景色である。ただそれだけのこと。ただそれだけなのに、詩人は、目の前の景色が「明歴歴露堂堂」の世界であり、永遠の真理が語られていることに胸を衝かれ、「真面目(本当の姿)」と感動を謳わずにはいられなかった。
ありのままを、ありのままに受け取り、そこに真実を見る。難しそうだが、それが「禅」の心なのだということもできる。余計な価値判断をやめれば、幼児のような純真な心で物事を見ることができる。
喫茶去(きっさこ)
〜誰にでも分け隔てなく相対する
趙州和尚は、新米の修行僧にも位の高い僧にも同じように「喫茶去(まあ、お茶でも召し上がれ)」と語りかけたという。茶席でもおなじみの禅語。一説に「お茶でも飲んで出直せ」の意味でもあるという。
初対面の雲水(修行僧)にも、古参の高僧にも、ただ等しく「お茶でも飲みなされ」とすすめる言葉に、まずはいろいろな執着を捨て、利害や相手の地位・賢愚をこえて、分けへだてなく相対することの大切さが込められている。
茶道においては、茶室では客はその地位や肩書きのいっさいを脱ぎ捨て、亭主は老若男女すべての客に平等に接する。日々の暮らしでも相手によって態度を変えることなく、いつもた泰然として平常の心でありたいものである。
色即是空(しきそくぜくう)
〜今ここにある自分を大切に
この世にあるすべてのもの(色・しき)は、因と縁によって存在しているだけで、実体ではない(空・くう)という大乗仏教の基本的な考え方。
宇宙の万物の真の姿は「空」であり、実体はないという有名な言葉。あなたという人間も、真の姿は「空」なのである。「色」は具体的な姿を持ったものをさし、「空」はその背景となっている因や縁、いわば天地の働きをさしている。
例えば花があるのは、生命をもたらす天地いっぱいの働きのおかげであり、もともと実体のないものが、その働きによって私たちの目に触れることができるということ。あなたも両親も恋人も、天地の働き(言いかえれば仏性)によってこの世に生かされいる。
「色即是空 空即是色」とは、いっさいの存在は無であり、存在それ自体がおのずから無であるということである。確実に言えるのは、「目に見え、手で触れられうものだけにこころをとらわれはいけない」。空であり無なのか、と虚無的になる必要もない。天地・宇宙の大いなる働きに感謝し、今ここにある自分の生を大切に生きればよいのである。
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「ふっと心がかるくなる 禅の言葉」
永井政之氏著
永岡書店
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私は無宗教であるから、すべての宗教を分け隔てなく受け入れて理解するようにしている。どの宗教にも良いところは存在するからである。宗教によって、さまざまな争いや紛争が起こっている今日、とても心が痛い。「どうしてお互いの宗教や宗派を、尊重して受け入れることができないのだろうか」と思う。これは同じ人間を尊重することと同じで、自分を理解してもらおうと思ったら、まずは相手を理解することから始めるという自然の摂理でもある。それができない人々や、国が紛争に明け暮れ、たくさんの関係ない人が巻き込まれる。特に子供や女性やご年配の方々など、弱い人々が悲しみの日々を送っている。「宗教とは一体何か」というものを、もう一度問い直してみるのも良いかもしれない。同じ人間を尊重するように、宗教のあり方はお互いを尊重して受け入れることから始まると感じる。
私が禅語を好むのは、心がほッと休まる瞬間をえたいからである。禅語を読んでいると、肩の力が抜けて、その日をありのままの自分で生きることができる。また、今の自分に大切なメッセージを見つけることができるため、迷った時や行き詰った時によく読んでいる。日本人だから仏教よりの考え方になるのは否めない。でも私は、その本の著者や日々接する人、親しい人、その日出会った人が、どんな宗教でも気にしないようにしている。確かに、以前入っていた宗教だけは少し抵抗感があるか、でもその人のパーソナリティは尊重されるべきである。だからなるべく分け隔てない、フラットな価値観のもとに、言動をして接することを心がけている。
世の中はいろいろなものや人が溢れている。どれが正しくてどれが間違っているかは、その人の価値観や経験で判断することになる。間違って気づくこともある。だから自分の直感や心を、常に磨いていくことが大切となる。知識ばかりを得て、頭ばかりで考えても何も学べないし、知識が乏しいがために騙され続ける人生も虚しい。どんな時も自分の信念に基づいた正確な判断ができることこそ、自分というものを持った強い人である。流されてその他大勢の一部になることは簡単である。しかし、流されずに個というものを確立し、どんな厳しい現状にも、不動の精神(心)でいられる人は尊敬に値する。やはり人間として生まれたからには、自分というものを持ち、自分らしく生きることが、心の平穏や幸福に繋がると感じる。誰にも真似できない譲れないものを持った人は、とても崇高で光り輝いている。そんな人になるために、私は日々学んでいくのだろう。学びを一生続けるためであれば、どんな試練も困難も受け入れようと思う。気づきをえるには、間違えや失敗、どうにもならないという現状にぶつかるしかない。それを乗り越えられたとき、また新たな自分と出会える。平坦な人生は幸福そうに見えるが、平坦な人生ほどつまらないものはないと感じる。面白くて楽しい人生は、辛く厳しい困難の先に待っている。だから私は、いつでもありのままを受け入れて、ありのままの自分で生きていこうと思う。



