働きたくない。体の痛みが尋常ではない。痛み止めという気休めを毎日飲んで体を騙して働く。そこまでして働く意味があるのかと、借金を返した後にどうしたいのか良く分からないから、働く事に意味が見出せない日々。嫌な思いをしてゲロが出そうなくらいな目眩や吐き気に襲われても働く。今日はずっと寝ていたい気がする。それでも水曜を休もうと目論んでいる私は、月曜と火曜は死んでも這ってでも出勤しようとしている。辛いときに働いてイライラを放出して雰囲気を悪くし、足手纏いになるくらいなら休んだほうがまだマシだと思う。
さあ、休んだところでお金もなくどこにも行けない。家で寝ているだけ、もしくはウォーキング。つまんない。家事をこなして昼間のCSIと映画を観る。虚しい一日は過ごしたくない。働いてたくさんの仲間と笑いあったりムダ話をすると疲れが取れる。限界点の時は本当に笑うことも話す事も疲れるが、誰かと接している時だけに感じる喜び。私はこれを大切にしたい。誰とも接しなかったら落ち込んで、コルトレーンを聞いてとレーンを脱線させてどん底まで落ち込んでしまう。そんな虚しい日は過ごしたくない。
だからといって働きたくない気持ちは変わらないが、みんなと(苦手な人も含めて)接しているほうが楽しい。仕事をしているほうが楽しい。私はいつでも心を楽しい方向に持っていける方法を探さないといけない。そうでないと簡単に落ち込んで死にたくなるからだ。生きている意味も見出せなくなり、家から出る事も自分の存在さえも分からなくなる。
確かに誰かのムカツク言動にイライラして、家に帰ってまでもそれについて考え、むかむかが収まらない時がある。それにより彼氏に八つ当たりして憂さを晴らしている弱い自分がいる。彼氏の甘えてくる態度や子供っぽい言動にイラついて、「もう大人なんだから」とか言ってしまう。それに「今週は昼も夜もご飯は作れそうにないよ」と釘を刺す。「分かっよ。買ってくればいいんだろ」と言われて、「そうかもね」と冷たい態度をとる。これが結婚している夫婦だったら状況は変わっているのか。それとも同じなのかは結婚してみないと分からない。結婚という通過点を経験しても私という人格はそう簡単に変わらないと推測する。
毎日、アレルギー・糖尿・落ち込み・いの痛みや左半身の痛みに耐えている。いくらか耐えられるのは、今まで苦しい経験を積んできたからだと思う。泥水を飲むような経験をたくさんしてきたからだ。這い蹲って踏まれても生きてきたからかもしれない。もっと辛い人はたくさんいる。私よりも自由を奪われて、痛い思いをしている人はいる。しかし私が生きることを選んでいるのは、「辛い時期に優しくされた事」が心から離れないからだ。
『人間が感じる幸福とは、辛い時ニッチモサッチモ行かない時、どん底の時に人から与えられた無償の愛や優しさを受けたときに感じるもの』
だと思う。だからといって私が「無償で誰かに与えられる人間になれる」かどうかはわからない。先の事なんて未来のことなんて誰も分からない。もう死んでいるかもしれないし、今日オサラバするかもしれない人生。だから今日という日を楽しもう。誰かと笑い合ってバカ話をしよう。誰かを恨んだりするのはやめよう。怒りを放出する事も、自分を蔑む事も・・・。
「今日という日は二度と訪れない」
私も含めた誰もが感じることができればどんなに優しさに満ちた毎日を世界の人が送れるだろうか。体の不調の時にでもどれだけ笑ってしまえるだろう。明日が見えないときでもどれだけ楽しく生きられるだろうか・・・。
今すぐすべてのものは許せないと思う。でも許していく姿勢や課程が大切だと感じる。許そうとしない人はいつも怒りを放出し恨みや憎しみで病気になる。体の不調を抱えたり笑顔のない人になる。そんな人生はつまらない。なるべくなら笑っていたい。一秒でも一分でも楽しい気分でいたい。クスリ(ヤクや精神科の薬も含め)でハイになれることは簡単だ。しかしハイになったあとのどん底や絶望感や副作用、落ち込みは止め処ないほどの憂鬱と孤独と死への誘いを運んでくる。ならば何もしなくても心を一定に保てないものだろうか。
それには「他人との関わり」や「人間関係に身を置く事」がとても大切だ。人間は人間関係で揉まれて磨かれて成長できる。その家庭で辛くて痛い思いもする。しかし「痛み無くして、成長や幸福を感じることはできない」と思う。失敗や挫折や絶望感から新たな新境地や心の変化を得られる。
いつでもどんなときでも人というつながりを大切にしていきたい。人は人でしか癒されない。人は人でしか分かり合えない。人以外の代替に何かを求めても何も得られないのだから・・・。

